———最終日に漕ぎたかった。みんなの期待に応えたかった。勝って仲間と泣きながら抱擁を交わしたかった。
どうやったら強くなれるか、怪我や病気を防げるか、いっぱい寝られるか。こんなことを常に考えながら、仲間と共に忙しない日々を過ごす。辛いけど、楽しくて、愛おしいこの日々が、終わってしまった。先輩、後輩、そして同期の仲間たちとみんなで艇庫に住むという当たり前は、もうありません。
ずっと前から、この日に引退するとわかってはいました。引退したらどう思うんだろう、と何度も想像していました。それなのに、まだ自分が現役でなくなったとは思えません。もう練習しなくて良いはずなのに、練習をしていない自分に罪悪感を覚えるし、疲労も溜まらないのに湯船に浸かってストレッチをするし、そこまでお腹が空いていないのに同じ米の量をわざわざ測って食べようとするのです。これを書いている今日は、最後のレースからもう4日が経っています。なのに、あんなに毎日やっていたスマホゲームすらやる気になれません。無気力、というわけではありませんが、今までのことがたくさん想起されて、ずっとしんみりしてしまうのです。ゲームを開いても、記憶を忘れないようにしているのか他のことに意識を向けられず、集中できません。現役の時は引退後にやりたいことがあれだけたくさんあったのに。
引退式で送り出して貰ったとき、ようやく自分が引退するんだという実感が湧いたと思ったのに、まだ理解できていません。
昔から、僕は「終わり」を極端に嫌がる人間でした。何事も、これが最後と言われると悲しくなる。新しい生活の始まりだなんてとても思えない。生活の全てが終わった今、頭が理解することを拒んでいるのかもしれません。
でも、いつか終わりは訪れるものです。仮にM1, M2まで続けたところで、いつか引退するという未来は変わりません。いつこの終わりの気持ちを味わうかでしか無いのです。———
ここまでが、僕が9月11日までに残していた言葉です。
これを書いている今は11月5日(提出は12月8日。ごめんな田村)。後輩たちの新人戦が終わり、ボート部に、また長い冬が訪れようとしています。引退してからの生活については、別のブログ「あれから」をご覧ください。ここでは、漕手を引退したことについて綴らせていただきます。
雰囲気に一目惚れしてこの部活に入って以来、新人として僕は順調な滑り出しをしていました。500mで吐きそうになっていたランニングもだんだんと出来るようになり、筋肉もついて(脂肪もついたけど)エルゴも着々と伸びていました。1年生の11月に6:56を記録し、このまま6:50くらいは切れると思っていました。新人期間は、きつかったけれど本当に楽しい期間でした。
ところが、新人戦が終わってから、僕は停滞しました。新人コーチという厳しくしてくれる存在がいなくなって、甘えが出ていたのだと思います。当時はそこまでボートのことを好きでもなかったし、別になりたいものもない。ただ艇庫でみんなと暮らせればそれでよくて、モーションは当たり前にやってきて当たり前にこなすもので。その程度の意識でした。それでもいつか強くなれるだろうと思って、漫然と生きていました。
結局、次にベストが出たのは3年の11月でした。この間の2年間、僕は怪我と病気を繰り返し、それらを減らすための努力のみをしていました。勝つための努力をしていませんでした。楽しい思い出は数多くあれど、あの期間は僕の中で大きな後悔です。
この期間について綴ってみましたが、起伏の無い暗い文章の羅列になってしまったため補足資料に載せておきます。ただし、上記の理由で読むのはオススメしません。
3年のインカレを終えて、僕たちが最高学年になって迎えた冬練は、僕はとにかく強くなりたいという一心でした。シングルやペアに乗るようになり、毎モーション何をすべきか考え、恐れずに全力で練習する。そんな当たり前が、ようやくできるようになりました。その結果、2年間止まっていたエルゴも再び伸び出し、エルゴが楽しくなりました。
僕はコンディション係に就任し、自分の2年間の経験を生かして漕手全員の怪我を無くし、病気の蔓延を防ぐことを目標に活動しました。ただ、具体的に何をしたかと言われると、風呂を沸かしたり、少し痛みが出た際の判断をしたりとか、その程度でした。モーションの変更や病気の対応は独断ではなく、メニューを組んでくれていた小岩と、モーションの結果を管理してくれていた川島と3人で相談し、結論は小岩に出してもらっていました。
結果として、3年の冬練は今までに類を見ない成功を果たしたと思います。怪我に怯えて全体の練習量を減らしすぎてしまったと反省していますが、あの判断に後悔はありません。体力的に2年間を棒に振っていた僕にとっては、あれが持続可能な最大ラインだったと思っていますから。
後輩たちがこれからもっと良い冬練を作り上げるには、個人個人の現状と向き合い、練習を変えるといった努力が必要だと思います。例えば、僕はLSDが刺さりましたが小岩にはあまり刺さらず、逆に小岩に刺さった全力UTは僕には刺さりませんでした。この手法は一歩間違えれば楽な方に、自分のやりたい方に逃れるだけになってしまうと思います。ですが、本気で強くなりたいと思っている人間なら、やりたくないメニューでも自分が伸びるためにできるはずです。練習が終わった時の感情とかではなく、長いスパンでの成長や疲労の残り方から総合的に判断できたら理想です。
冬練が開け、初めてエイトを組んだ時の感動は忘れられません。お花見で東大と競ることが出来たのも、全日本で4艇並んでの激闘が出来たのも、どれも今まででは考えられないものです。全日本は今でも考えただけで震えます。最後のシーズンは全てが違いました。
一番違ったのは、誰もが本気で勝てると思っていたことだと思います。言葉には出さずともみんな薄々持っていた諦めの感情が、全く無かったのです。OBさんたちの期待もひしひしと感じました。3年の夏まで応えられないとわかっている応援が何より辛かったけれど、この時は応援が力になりました。このおかげで練習の質も部の雰囲気も、全てが良かったと思います。タイムも全日本までは順調に伸び続けていました。
ターニングポイントは双青戦の後に起きたパンデミックだったと思います。ここまで何とか防ぎ続けてきたパンデミックが、遂に起きてしまったのです。これが、最終シーズンにおける僕の最大にして唯一の後悔です。コンディション係として、もっと慎重な対応ができていれば防げたかもしれないのに。そう思うと、やるせない気持ちが押し寄せてきます。
それから、僕たちは伸び悩みました。伸び悩んだとは言っても伸びてはいたんですけど、伸びが緩やかになってしまいました。それでも、インカレまで諦めずに心の底から最終日を望んで戦いました。
最後のインカレは、全てを賭けて戦いました。でも、届きませんでした。
僕たちの新人コーチが最後のレースを終えた時に「もう漕がなくていいんだ」と思った、ということを聞き、僕もそう思うのかなと思っていました。でも、レースを終えたばかりの僕に、その達成感じみた感情はありませんでした。届かなかった無力感だけが僕の心を支配しました。涙を流すこともなく、ただ茫然と空を見上げました。
ここまでが、僕の3年半の振り返りです。あの日々を忘れたくなくて、ついたくさん書いてしまいました。ふと思い出すのは楽しい思い出ばかりですが、辛いことが多いような書き方になってしまいましたね。
振り返れば、僕には浜田みたいなエルゴも、石羽みたいな技術も、大石みたいな体格も、西みたいなポジティブさも、小岩みたいな心の強さも、何もありませんでした。だからこそ、自分に何ができるかを考え、部のために努力していました。自分が強くなれなくたって構わないから、全員で強くなって、エイトを少しでも進めてやろうとしていました。
この考えを持ち始めたのは2年生の頃でしょうか。自分の能力に限界を感じ、こんな発想で動いていました。全員で強くなろうという考えは正しかったと今でも思います。結局、クルーボートで戦うのですから。
しかし、自分の能力に見切りをつけたことは正しくありませんでした。楽な道に逃れ、強くなるための努力を怠っていました。自分があと少し強ければ刺せていたレースもきっとあったはずです。これを読んでくれている後輩たちも、才能の差みたいなものを感じる日が1日くらいは来ると思います。でも、強くなりたいと思い続け、動き続ければ、限界はそんなに近くないことに気づくはずです。これまでの人生でずっと才能を言い訳にしていたことを、僕はようやく知覚できました。
上記の他にも、ボート部で本当に様々なことを学びました。楽しい日々と、かけがえのない仲間も得られました。今の僕を形成するものは、ボート部で得たものがほとんどだと思うくらいです。心から、この部に入って良かったです。共に歩んでくれた方々、支えてくれた方々、本当にありがとうございました。
最後に、ありきたりですが最後の言葉みたいなやつを綴ろうと思います。
僕という一漕手を応援してくれていた人へ
こんな僕に期待して、応援してくれて、本当にありがとうございました。本当に力になりました。最後まで応援に応えることができなくてごめんなさい。
漕手・安間光一の物語はここで終わりです。ですが、ボート部の物語はまだまだ続きます。これからは、僕と一緒に読者として、僕の愛したこの部活を応援してください。
マネージャーへ
僕たちの日々を支えてくれたこと、何度感謝してもしきれません。僕たちが弱くて、僕たちの勝利を信じられなくなった日々も多かったと思います。そんな状況下でも、支えてくれてありがとう。これからはもうそんな日々は訪れないから、どうか選手たちをこれからも支え続けてください。頼みます。
高橋先輩、吉野先輩、廣瀬先輩へ
ずっと僕たちに期待し続け、教え続けてくれてありがとうございました。最高学年を経験した今、あなた方がしてくれていたことの意味と価値がはっきりとわかる気がします。
自分たちの引退試合の大部分が僕たちに左右されるという状況で、僕が努力を怠ることへの憤りは、今は想像に容易いです。僕たちの引退試合では後輩たちが全力で勝ちに来てくれたからこそ、そうできなかったことが本当に申し訳なくて、悔しいです。
そんな状況下で、めげずに必死に僕たちを強くしてくれたことに、言葉を絶するほどの恩義を感じています。だからせめて、最後に結果で恩返しをしたかった。貴方たちの努力に身を結ばせたかったです。
勝てなかったけれど、最後のシーズンで希望を持って戦えたのは貴方たちのおかげでした。本当にありがとうございました。
一年漕手、COXへ
オッ盾、新人戦を終えて、なんだかボート部らしくなりましたね。君たちの雰囲気は、どこか僕たちに似ているところがある気がして、親近感を感じます。互いを貶し合って、悪口ばっかりなところとか特に。でも、君たちは僕たちよりもミーティングが長くて(別に良いことではないけど)ボートに真剣に向き合っていて、上達が早そうだと思います。そのやる気から過度に練習して怪我や病気を引き起こしちゃうのはいただけないけれど、どうかその気持ちは忘れないでください。辛い時、その心を忘れれば、僕と同じ末路を辿ります。どうか、折れぬ心で僕たちよりも強くなってください。
石橋、遊佐、雲田、矢口へ
フォアに乗っていた2,3年生たちは、怪我や病気で辛い時期が多かったと思うけれど、よく辞めずに漕ぎ切ってくれました。君たちの状況は、昨年の僕と似ていたと思います。辛く、苦しい期間を経験した分、次のシーズンでは絶対に楽しんで欲しいです。その経験は糧になる。頑張って。
洋輔、塩尻、水越へ
一緒にエイトに乗ってくれたのが君たちで良かったです。まだ来年以降もあるのに、今年の大会に全力を出してくれて、本当にありがとう。上手くなったね。僕が出来なかったことだから、より君たちの凄さを感じます。これからもこの部活を引っ張って行ってね。
最後に、同期のみんなへ
3年半、ありがとう。これだけ一緒にいれば、僕が思っていることくらい大体わかると思うので、敢えて言うこともありません。ただ、同期が君たちで良かったです。楽しかったね。これからも定期的に会おうね。まずは引退旅行、絶対行くぞ。
Appendix: 暗闇の2年間
当時の記憶といえば、年末チャレンジを思い出します。その年までは恒例行事だったらしく、1年生は2重跳びを50回連続で跳べるまで家に帰れない、というものでした。僕は小学生の時、1回に全てをかける跳び方をしてようやく1回跳べるかどうかだったので、かなり絶望的に思えました。それでも練習を続け、最後の挑戦日に4時間ほど縄跳びを跳び続けた結果、見事に50回連続を達成し、家に帰る権利を得ました。
しかし、その翌日から2日間革靴で歩き回るバイトをした結果、足首を壊しました。そして、当時はまだ新型コロナウイルスが猛威を振るっていた時期だったため、頻繁に艇庫が閉鎖されました。自分自身のやる気の無さとこれらが重なって、結局この冬練で僕のエルゴタイムは全く上がりませんでした。エイト「燕」を階段から落として壊してしまったのもこの頃でした。この年の新歓で思うように部員を獲得できなかったのも、もしかしたらこのマイナスな雰囲気を隠しきれていなかったからかも知れませんね。
それでも、冬練が明け、2年生になって、初めて漕手として迎えた五大学レガッタはとても楽しかったです。五大学レガッタには毎年エイトで出るのが伝統であり、僕たちは4年生1人、3年生2人、2年生5人に3年生のCOXというかなり漕歴の浅いクルーでした。当時エイトで戦った筑波大学も東京海洋大学も漕歴で僕たちをかなり上回っており、全大学が、自分たちが勝てると本気で信じて戦いました。僕たちも、こんなメンツであんな漕ぎだったというのに自信を持って臨みました。
レースでは廣瀬さんのコマンドがぶっ刺さり、彼のプラン通りに勝利を納めました。あの勝利の瞬間は忘れられません。
その後はインカレまで何があったかあまり覚えていません。全日本は出漕せず、理工系は特に競ることもなかったはずです。病気も怪我もしていたのでしょう。僕が技術以外で成長することはありませんでした。それでも、インカレでは6:32を出し、惨敗ながらエルゴの割に良く進んだな、と記憶しています。
高橋先輩たちが引退してから、新人戦が始まりました。2年生の全日本新人はとても楽しみにしていた大会でした。この大会では小岩がシングルを希望したため80kgメンバーで再びフォアを組んで出ることにしました。
全日本新人の1ヶ月前にあった東日本新人では1年生と共にエイトで出漕しました。大石の病気により既に漕手を引退していた遊佐が代わりに乗って3:09というタイムでした。一橋に完膚なきまでにやられましたが、タイム的には悪くないと思っていました。
しかし迎えた全日本新人、僕たちは例によってAlbusではなく借艇をして出たのですが、結局運で準決勝に進んだのちに惨敗しました。帰り道に、歩きながら自分の無力さを嘆いて涙したことを覚えています。自分がもっと強ければ。体重がどうとか艇がどうとか言って諦めていなければ。そんなことを思いながら。
全日本新人を終え、燃える想いを胸に2年生の冬練を迎えました。ところが、その心の炎はすぐに消えてしまいました。毎週のエルゴ30分×2がトラウマになったからでしょうか。乗艇が上手くいかなかったからでしょうか。モチベーション低下と共に怪我も病気も増え、同期も失い、全てが上手くいきませんでした。年末オフにはインフルエンザが大流行し、体力がガタ落ち、更に後輩も1人失いました。
冬練明けのお花見レガッタでは東日本新人とほとんど変わらないタイムしか出ませんでした。五大学レガッタではなんとか勝利しますが、全日本選手権は艇運びが地獄だった上に全クルーで最下位、唯一の敗復落ちクルーでした。その後僕は手首の怪我が長引き、エルゴもろくに引けず、乗艇もあまりできずに体力が全く伸びませんでした。インカレでは6:54というエイトとは思えないタイムで圧倒的最下位になりました。
この時ばかりは普段口を出さないOBさんたちも怒っていました。「強くならないのは強くなりたいと思っていないからだ」といったことを言われたのをよく覚えています。当時は内心苛立ちましたが、今となってはその通りだと感じます。当時の僕は怪我を恐れ、ストレッチなどマイナスを減らす努力しかしておらず、プラスを産んで勝ちに行こうとしていなかったのですから。


